忠邦は敬神崇祖の念から文政四年浜松城内に祖先忠元の霊廟を建立しているが、藩士やその子弟の教育にも心を用い、唐津時代の藩学校の名称をうけつぎ、天保十三年以前に経誼館を浜松高町に設けている。目的とするところは藩のために有為な人材を養成するにあったが、士分格以外の子弟にもその門戸を開放している。【県居霊社】また自らも学問を好み、高林方朗(みちあきら)にも歌道を学び、方朗の願いにより県居(あがたい)霊社修造のため天保四年八月「県居翁霊社」と碑銘を揮毫している。また引佐郡大福寺の寺宝「鍍金装桐木地笈」を江戸に運ばせて鑑賞をしている。これらについては第七章にゆずる。