浜松藩出動

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 【住吉沖】文政九年(一八二六)元旦、一艘の異国船が遠江国一橋領住吉沖(榛原郡吉田町)に漂着した。清国寧波船であったが時節がら大さわざとなって、八日には浜松水野左近将監(忠邦)百七十人、横須賀西尾隠岐守二百二十人、掛川藩太田摂津守百九十人、相良田沼玄蕃頭百五十六人、田中本多豊前守三十二人、駿府代官羽倉外記二十八人、中泉代官竹垣庄蔵二十八人、一橋代官小島源一が十二人の手兵を出してものものしく沿岸の警備を行なった(『新訳花園渉筆』)。このとき浜松藩の警備したのは領内大中瀬村(磐田郡仿僧川下流)沿岸であったという。
 当時日本近海に出没する外国船に対する警戒のためこのような緊急出動を行なったのであるが、天保年間になるといわゆる外圧はますます加わってきた。ことに天保十一年阿片戦争で清国を撃破したイギリス艦隊が勝ちに乗じてわが国に来襲するかもしれないという情報は、国防の危機を感ぜしめるに十分であった。忠邦を首班とする幕府は、天保十三年七月には文政の外国船打払令を緩和するとともに、懸案の江戸湾の防備を強化し事態の急に対処しようとしたのであった。