【長沼流】これよりさき忠邦は、腹心の用人秋元宰介を高島四郎太夫(秋帆(しゅうはん))に入門させて高島流の砲術を学ばせていたが、改革にあたって長沼流の兵学が銃砲の火力を重視する有利な点をみとめ、同流の兵学者小野寺慵斎を天保十二年七月に浜松へ招くことにした。それには松崎慊堂(まつざきこうどう)の推挙があったという(『慊堂日暦』)。そして藩臣古市四郎右衛門・大道寺源内・石原兵衛・大久保銀蔵・中村源太郎の五名に命じ長沼流の兵学を学ばせるとともに、出講日を定めて物頭以上の者に受講させた。【高島流】しかし藩には伝統もあり、高島流の兵学を学んだ者たちの反感も手つだい、家老拝郷縫殿(はいごうぬいと)の縁つづきで藩内に勢力を持つ年寄二本松内膳はじめ藩の儒官司馬騰太郎(佐藤一斎の門弟)などは公然と反対するというありさまで、慵斎の意図する軍事改革は容易にその緒につかなかった。