軍事改革の実施

334 ~ 334 / 686ページ
 かかるうちに忠邦は天保十四年閏九月に老中職を辞任したが、これを機会に長沼流兵学による軍事改革の実施に踏みきった。ときに天保十五年(弘化元年)正月であった。
 すなわち国家老水野平馬を軍事取調兼兵学修業総司に同拝郷縫殿を次将に任じ、慵斎を軍事顧問としてその立案に着手させた。【軍事改革案】そして古市たち五名の藩士の協力によって、同十五年十一月にいたってその案がまとまった。これを「海防御備組書」といい、ついで翌弘化二年三月に「自国警衛組書」がなるにおよんで完成した。前者は領内海岸警備の大綱を、後者はその警備地域をさらに城下・浜松城下町・領分四方境目・領分内飛地の四区に分けて警備の組織と方法とをのべたものである。

自国警衛組書(東京都立大学蔵)