五月の一揆

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 【高林家】閏五月十日、この日は夜になっても暑さが去らず、有玉下村庄屋高林伊兵術はいつまでも蚊張の中で寝返りを打っていたが、いつのまにかうとうととまどろんでしまった。それからどれほど過ぎたか、ものものしい人声に目覚めた。いぶかるまもなく「何れのものともしれず」門扉をたたき戸や羽目をはずし邸内に乱入してきた。そして家の中の家財道具を手あたりしだいにとり散らかし、土蔵を押しあけ物を持ち出すようであった。「俄の事」とて家族一同を奥座敷へとじこめ、おそれわななくばかりであったが、やがて群衆は潮のひくように立ち去った。時刻は八ッ時(午前二時)と推量したが、なにはともあれというので伊兵衛は暗い夜道をひた走りに浜松の代官・郡奉行に事態の急を知らせた。郡奉行山川伴蔵らが配下の者約二十人をひきつれて検分にかけつけたのは短い夏の夜はすっかり明けた五ッ時(午前八時)であった。被害は米四俵・籾六俵・あら麦十七俵・鍋入麦二俵・繰綿二貫目、夜具をはじめ膳茶碗類、鍋釜から戸障子風呂桶行燈におよんでいた。
 【五三か村 浜松北部地域】この夜蜂起したのは有玉役所支配下の五十三か村の農民たちで、襲撃をうけたのは高林家以外に五ッごろから羽鳥村庄屋卯右衛門をはじめ、高畑村庄屋源三郎・橋爪村庄屋十右衛門・有玉畑屋村庄屋喜平治・上前嶋村庄屋権兵衛の六軒で、いずれも勧農長(勧農掛の改称)の居宅であった。農民たちは手に手に天秤棒(てんびんぼう)と息杖(いきずえ)をふりまわし積穀を返せと叫びながら義倉(ぎそう)をあけ、他村庄屋立会のもとに籾穀をことごとく運び出してこれを分配し、余勢を駆って平素藩役人の走狗となっている勧農長宅を急襲したのであった。

破地士等窠(浜松市高町 石原信保氏蔵)