一揆の原因

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 ところで、なぜこのような一揆が起こったのであろうか。一口にいえば水野家三十年にわたる多年の治政に対する怒りが新旧領主の交代の空白期にあたってほとばしり出てこの騒動になったものだといえよう。水野家は領民に対して種々の名義で金子を貸しつけておき、しかも高利をとって利鞘(りざや)かせぎをしておきながら、移封のまぎわになってはげしくその返済を迫るばかりか、御用金とか無尽講の名のもとに農民から借りあげた多額の金子の始末をしようとしない。こうなると多年にわたって義倉に積みたててきた籾やきびなどの穀類もはたして在庫しているかどうかも疑わしくなってくる。そこで村ごとに集会した農民たちは勧農長の庄屋らにその割返しをせまったが明確な回答を得ることができない。【批政糾弾】さては勧農長らに積穀の不正使用があったとして、その非を鳴らして蜂起したのであった。その目的とするところは多年のあいだ藩役人に阿諛叩頭(あゆこうとう)し「小前」をいじめぬいた勧農長庄屋たちに痛打を与え、喰い逃げ同様にいま浜松を立ち去ろうとする水野家に膺懲を加え、積年の欝憤を晴らそうとしたところにある。

弘化三年百姓一揆関係図