はたして六月二十二日、こんどは遠州灘沿岸の村々を中心として再度の一揆が勃発した。【米津浜集合】これよりさき、六月二十日三嶋村(当市三島町)陣屋支配下五十八か村の農民から選出された総代たちは、義倉積穀の分配を要求しようとして米津浜(当市米津町)に集合したが、急報によって駈けつけた水野家の役人になだめられ行動に移すにはいたらなかった。ついで翌二十一日は「観音講」と称し一村に八名ずつの惣代が、三嶋陣屋に隣接する竜禅寺(当市龍禅寺町)境内に集会を開き、勧農長庄屋の臨場を求め積穀の処理について釈明を迫った。しかし、例によって勧農長は満足な説明ができない、おどおどするばかりである。それのみならず代官青木市之進はなにかとこれをかばい、もっともきびしい詰問をうけた植松村・向宿村・瓜内村の勧農長をひそかに逃がすという始末である。【六月の一揆】ここにいたって農民の憤激はその極に達し、二十二日の打ちこわしとなったのである。
こんどは早朝から夜半にかけて白昼どうどうと行なわれた。もう闇にまぎれてこそこそとする必要はなかったのである。【浜松南部地域】まず、手はじめとして目標となったのは向宿村高林七郎左衛門宅であったが、あらかじめ不測の事態に備えてきびしい警戒をしいていた郡奉行山川伴蔵らは蜂起した農民二百余人の勢に呑まれて、ただ手をこまねくばかりであった。これに勢いを得た農民たちは三嶋陣屋支配下五十八か村へ十五歳から六十歳までの男子は残らず参加するよう檄をとばし、瓜内村庄屋斎藤七郎右衛門・江之嶋村庄屋源兵衛とその新家、三嶋村郷宿および同村車屋各一軒、金折村庄屋市郎右衛門・植松村次郎平・小沢渡村庄屋十太夫宅をはじめ増楽方面を疾風のように荒らし廻った。このとき江之嶋村庄屋宅は簞笥長持衣類夜具をはじめ畳建具天井壁はもちろん米麦味噌醬油梅干漬物類にいたるまでまき散らされ足の踏み場もなかったという。しかし、これらの勧農長庄屋の中には巧みに身を処して襲撃を免れた者もあった。たとえば三嶋村庄屋土屋善次郎は積穀の預り金として金三十両を即時に提供し、白羽村庄屋清水惣作と勘治郎は同村法蔵寺の住持瑞麟の才覚により「御免可被下候 金拾五両也 唯今出金仕候」と立札を掲げ危うくその難を免れたという。こうして群衆は金折村付近に達したときにすでに無慮一万余に達していたといわれる。