その後、不穏の状態が鎮まるのを待って主謀者とおぼしい者を三十名ほど取り調べたけれどもついに判明せず、また逮捕した者も釈放せざるを得なかったという。なおこの「打毀」が、天竜川東岸の水野領小嶋陣屋(豊田郡小嶋村、いま磐田郡)管下の村々におよぶおそれがあったことは、同年六月二十九日付で中泉代官所が農民の妄動を戒告した触書によって知ることができる(『三ケ日町史資料』第七輯)。七月二十日有玉下村の伊兵衛は仮役所に出頭を命ぜられたが「先達の乱妨一条何か其後手懸りはこれ無きやとの御尋ねこれ有る所、何もこれ無き由申上候」と答えている。そして八月四日までが「水野様の御代」、五日に本陣伊藤平左衛門方で郷村の引渡しがあって「井上様の御代」になったと記録している。