ところが、いよいよ水野家の浜松引揚げという日取りがきまると、一応鎮まっていた一揆が再燃しようとした。もともと寺嶋八幡地(当市寺島町およびその付近)は前述のごとく土地所有関係が複雑で寺社領があり、また浜松市中の旅籠町・新町・鍛冶町などの飛地もあるというわけで、当時庄屋は利町平六・池町久左衛門が勤めるという変則さであった。高免地であったため、これに備え四十年にわたって蓄積した金子が「田地相続金」という名義で元利千五百両に達していた。寺嶋八幡地ではこの金子と水野藩から交付を受けた永続金七百両とを藩に預金し、その金利をもって年貢の一部に充当することにしていたが、この金子二千二百両を返済しようともしないで曖昧のまま引き揚げようとしたため農民が騒ぎ出したのであった。農民は、利町平六らは水野家役人と同腹なりとして、満足な回答を得るまでは水野家の退去は許さぬと気勢をあげ、七日には簑笠をつけて仮役所付近まで押しかけ、夜になると提灯をかかげて回答をせまった。