井上藩にたいして農民たちは続々多数の願書をその藩役所に提出した。浜松領内民衆にとって、水野藩政下につくり出された多くの不満を解決すべき絶好の機会が到来したのであった。
たとえば弘化四年四月、浜松地方の農民代表からつぎのような要求が出された。【米積出】浜松古城には藩の米倉があって、ここに収められた米が舞坂湊や掛塚湊から京坂へ積み出しにあたって、それに必要な労力を舞坂・中野町・弥助新田の三か所から出していたが、水野忠邦の入封によって新たに富塚(とみつか)村・権現谷(ごんげんや)(以上当市富塚町)の二か所が加えられた。その際一同大いに反対したが取りあげられず、いつの間にか定式となってしまった。水野家から井上家にかわった現在、旧例の三か所に改めてほしい(『浜松市史史料編三』)というのである。しかし、この結果はよくわからない。