村役人の自重

348 ~ 349 / 686ページ
 村役人そのものも藩の思うとおりになるものではなくなった。村役人自身が、これまでにもまして民衆の動向をよく考えて慎重に行動するようになった。
 【庄屋辞退】有玉下村(当市有玉南町)の庄屋左衛門が弘化四年(一八四七)の正月、橋爪(はしづめ)村庄屋十右衛門とともに、中瀬村(浜北市)の兼帯庄屋をやめさせてもらいたい、と願い出たのも前年の一揆からうけた衝撃が原因であった(『高林家日記』)。左衛門は遠州の国学歌人として水野忠邦の歌道の師ともなった高林方朗(みちあきら)の養子豊鷹であり、彼もまた和歌をよくし国文学に通じた遠州有数の文人であった。
 【立入拒否】左衛門はまた下大瀬村(当市大瀬町)の年貢勘定のため、嘉永二年(一八四九)二月代官所より東美薗(ひがしみその)村(浜北市)の庄屋藤右衛門とともに、立ち入ることを命ぜられた。しかし下大瀬村の村役人たちの説明を聞き、左衛門・藤右衛門の両人はとくに問題もないとして、立入りの中止を代官所に願い出た。四月になって再度、代官所より下大瀬村へ立ち入るよう命ぜられたが、弘化三年の一揆の落着していないのを理由としてこれを拒否し、ついに立入りを免除させてしまった(『高林家日記』)。