藩は清水助次郎の代官を罷免させるとともに、農民のあいだに信望の厚かったと思われる相曽幸次兵衛を任命し、嘉永元年(一八四八)四月若者組の取りつぶしを命令した(『浜松市史史料編三』)。【祭礼 風巾】この触書によれば、村々には若者といって、神事祭礼をはじめ、吉凶につけて大勢打ち寄り、不法なことを要求し、風巾(たこ)あげにあたっては、近ごろは大型の凧をつくり、施主に迷惑をかけている、ついては早々に規定をとりきめ、その旨を報告せよ、というのである。そしてこの若者組取りつぶしのため、村民全員連署の誓約書をとりたてた。いつでも変革の中核となるのは若者である。藩は村民と若者との分裂をはかり、その孤立化をねらったのであろう。すでに水野藩も若者組の取締令を出していることは前述したとおりである。
【大念仏】若者組の活動の一面であった大念仏の興行も、弘化四年七月停止させるとともに、氏神の祭礼に太神楽(だいかぐら)を行なうことを規制し、とくに「乱防拘合(らんぼうかかりあい)之村々者、右済方ニ相成候迄者可差控候」と若者組の力を恐れて、これをおさえようとした意図は明白であった(浜松市史史料編三)。ついで九月にも若者組の取締令が出されたが、これらのことは井上藩が、水野藩にたいする浜松領内民衆の怒りの高まりと、先年の激烈な一揆の力とが、井上藩政にも向かうことを恐れ、若者にたいして大きな警戒心をはらっていたことを示すものである。