浜松宿と助郷村の係争

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 弘化四年七月から十一月ごろにかけては、何か不穏な情況がつづいたらしい。弘化四年の秋は作柄が悪かったせいもあろうが、助郷村々は、浜松宿の連尺・伝馬・旅籠・塩・田・肴の六か町にたいして、塩をのぞいては品物の売買・投宿など一切について、排斥することを取りきめている。しかもこの取りきめにそむく者があれば、制裁として助郷諸入用をその村に課すことを助郷七十八か村が申しあわせているところをみると、たんに村方の倹約以上に宿方との間に、深い対立が生じていたのであろう。そして村方が不利に扱われたのは、「宿方より不実意之願立致し」村方で右の取りきめのされたことからも明白であろう。代官清水助次郎排撃の張り紙が城の大手門や馬込の木戸に張られながら「郷方ニ而致候哉」と噂されたのも、浜松宿との係争が連想されたからと思われる。清水助次郎を罷免し犬塚啓三郎を登場させた原因も、この浜松宿方と助郷村々との係争にあったかもしれない。