岡村黙之助

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 井上藩にも日本の危機を強く意識する人たちが育っていた。中でも岡村黙之助(義理)は、その代表的な人物であった。彼は郡手代として江州石寺村の陣屋に勤務中、大津に滞在した三州吉田大河内藩の郡奉行、中沢弥兵衛と懇意になり、彼を通じてその甥の柴田猪助(善伸)とも交際するようになった。ときに天保五年(一八三四)二月、黙之助が三十三歳のことであった。柴田善伸は黙之助より十八歳の年長で、大河内藩の郡奉行などをつとめ、測量や洋学に明るく、国際情勢への関心を強くもった開明的な人物であった。善伸は江戸詰の弟福島献吉や蘭学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水)・磐渓父子らと交際深く、彼らを通じて内外の新知識を有し(『善伸翁をめぐる書翰集』)、黙之助をすこぶる啓発した。黙之助と善伸との親密なる交渉は善伸が嘉永二年(一八四九)四月十二日、六十六歳で病没するまでつづけられた。
 天保九年黙之助は播州の新封地の代官を兼ねるとともに、蔵屋敷詰郡奉行として大坂白子町に移り、窮迫する藩財政の処理にあたった。井上藩が館林より浜松へ移封されてのちも、引きつづき大坂にあって播州七千石の支配と資金融通に活躍した(『岡村父祖事蹟』)。

岡村義理像(岡村父祖事蹟)