嘉永七年(安政元年、一八五四)正月十二日、代官三浦勇次郎から差し紙が急ぎ廻された。【藩兵出動】外国船が浜松沖に出現し、壱番手の藩兵が出動するので、有玉下村からは人足十五人、馬二疋を出すようにというのであった(『有玉村高林家諸用記』)。
これはペリーの率いるアメリカ東印度艦隊の出現にたいしてとられた処理である。七隻の軍艦は幕府から開国の回答を求めて、遠州灘をゆうゆう東へ向かいつつあった。しかし有玉下村は四百弐拾石ほどの高を持ちながら「馬之儀ハ御伝馬役ニ罷出無之」、この伝馬出役の馬もわずかに壱疋にすぎなかった(『浜松市史史料編三』)。これは有玉下村だけの特別の現象ではなく、すでに浜松宿の伝馬にさえ、十分な頭数は集められない状況であった。このように馬が減少してしまったのは、ひとえに農民の生活が窮迫し馬の飼育がすっかり困難となったためであった。