一方浜松領内の神主十五名は、異国船出現の報を聞くと、正月十七日大瀬村神明宮に集まり「異国船防之祈祷」を厳修した。翌十八日には恒武村の田辺筑後と天王村石津求馬の二人が代表して、前日祈祷の神札と供物を寺社奉行中沢利右衛門宅へ献上する、といったように、神主たちも自分の職務において国防に尽力したのであった。
ぺリーは浦賀へと去っていった。さきにビッドルの艦隊が遠州灘をよこぎり、いままたぺリーが脅威を与え、浜松の人々も一層海防の必要を痛感したにちがいない。米津浜の海岸砲台の築造も、ぺリー来航後、完成がいそがれたのである。