浜松井上藩で海岸警備のための備場(そなえば)をつくるよう命令の出されたのは、嘉永六年(一八五三)十二月のことであった。これはペリーの最初の来航直後、幕府が諸藩に砲台築造の命令を出した九月末から二か月ほどのちのことであった。藩が浜松周辺の村々へ廻した、十二月六日付触書によれば、(1)海岸に御備場がつくられるので、浜松城付の村々から軒別に人足を出すこと。【軍役】ただしこれまで諸役を免除された村もこんどのものは軍役であるから他の村と同様に人足を出すこと。(2)軍役であるので人足に扶持は支給されないきまりであるが、今度にかぎり人足一人米五合ずつ支給すること。(3)海岸沿いの村々は時宜によって人足を出さねばならないこともあるので、今回は人足を出すことは免除する。(4)縄・竹などは他村の村々から買い上げること。(5)人足を出す日限については、圦樋方役所から連絡するので遅滞のないように。
これにたいして村によっては極老(ごくろう)・後家(ごけ)のため、かわりの者を差し出す動きもあったようであるが、これは中止された。御備場の建設命令が、どのように実行に移されたのか、どのような御備場がつくられたのか、具体的にはまったく不明である。おそらく御備場の建設はそれほど積極的には行なわれなかったのではないかと思われる。というのはこれに関する史料は、安政三年(一八五六)になるまで他にみることができないからである。