台場築造

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 安政三年二月二十八日のこと「御台場一条ニ付招月院へ組合庄屋参会」と有玉組合村々の庄屋が集まって、台場建設への協力の仕方を相談した。【家中】これにもとづき有玉下村では村役人たちは三月一日夕方村民を残らず正光寺へ集めて今般御台場御家中ニテ築立」て、浜松の町方でもこれを助勢するとのこと、有玉組合村々の役人たちも二十八日同様に助成することをとりきめたが、一般農民の中でも有志は申し出てほしいといっている(『高林家日記』)。
 【神主連】三月十日には有玉の神主たちが台場建設に助勢することを決定した(『高林家日記』)。動員態勢もしだいに整ったらしく、このころより台場建設の労力奉仕に続々出かけた。【村役人】『高林家日記』三月二十三日条に「御台場御加勢先日残り分尚又三役人不残伝兵衛・庄左衛門外ニ維兵衛下男召連都合十三人罷出候」と記しており、もっぱら村役人たちが出かけ、一般農民はほとんどこれに参加しなかったようである。
 台場の建設は五月になってもなお続行されていた。五月九日には金原中務より米津浜海岸砲台の建設応援のため神主一同十三日に金原宅に集合することを指令した回状が廻されており(『高林家日記』、永嶋市川家文書『手控』)、砲台の主要部分の完成は安政三年五月ごろであったとみられる。

米津台場跡(浜松市米津町)