ペリーの艦隊が浜松沖を通過したのちの正月二十七日、藩は寺社役所を通じて「異国船渡り来るの節御人数江被差加候ニ付十五歳ゟ六十歳以下名前、来月三日迄に役所ヘ可被書出候」と神主たちに命じた。神主が祈祷するだけでは、この国難を乗り切ることはできない。ことに緊急を要したから、嘉永七年(安政元年、一八五四)二月二日から五日間、神主たちは八幡宮(当市八幡町)に集会し、連日協議をこらした(『高林家日記』)。ここで何が話しあわれたか、全貌を知ることはできないが、その第一はもちろん外国艦船の襲来にあたっての藩への協力態勢についてであった(市川家文書『手控』)。【神主隊結成 浜松矢師】評議は加勢することに一決し、弓術で著名な天王村(当市天王町)竹山陽左衛門を教師として足並稽古を四月十日から開始すること、矢師は浜松紺屋町文治郎の名が挙った。第二にこれと関連して、嘉永元年(一八四八)以来問題となっていた神主が俗名をもって宗門帳に記載することなどが話題となったと思われる。
四月十日には予定どおり八幡宮の矢場において、二十名ほどの神主が陽左衛門の息子から稽古をうけている(『高林家日記』)。