弓術訓練

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 十六日は出席を予定された四十一名のうち、わずか十六名しか集まらなかったので、二十日の弓稽古終了後再度評議し、武具は藩より用意されたい、出陣の際は神主一同揃って加勢することなどが確認された(市川家文書『手控』)。その後の弓の稽古は八幡宮において四月二十九日・五月十五日・六月十六日・七月二十二日・閏七月十三日等、月に一回ないし二回行なわれたことが『高林家日記』によって知られる。これらの稽古には竹山陽左衛門が、その都度指導し、稽古日には幾人かが集まったが、必ずしも大きな団体訓練ではなく、もっぱら個人的な弓術の練磨にならざるをえなかったようである。閏七月五日のこと高林維兵衛・鈴木弾正・松島右門介ら世話役が、弓稽古の着到帳をしらべ、稽古の出席不良者を藩に報告しており、神主の弓稽古が藩とどのような関係にあったかをよく物語っている。