神主隊結成の理由

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 神主の弓隊が比較的すらすらと結成されたのはなぜであったろうか。考えられる理由の第一は浜松領の神主たちが藩にたいして別件の要求運動をしていたことである。【離檀運動】それは神主たちが藩より神主の象徴たる受領名を停止し、俗名をもって宗門人別帳に記載するよう命じられたことに反対し、これをきっかけとして離檀運動を展開していた最中であったから、神主たちの結束は強く、そのため彼らは藩の政策に自主性をもって協力奉仕しつつ、これらの問題を有利に解決しようとの意図をもっていたと思われる。それ故にこそ弓隊の結成や海岸砲台建設に積極性を発揮しえたのではないだろうか。
 【農村分解】第二に国際関係の緊張と国内では農村の分解がいっそう激化したことである。内外情勢の緊張につれ村落支配者階級であった神主たちは、自らの地位を維持するために、敏感に反応するのが当然であった。こうして第一の理由とも関連して彼らは現状を何とか有利に導いていかねばならなかった。
 【国学】第三には遠州の神主たちが賀茂真渕以来の国学の伝統を受け継ぎ、日本の内外の危機に直面した民族意識にめざめていったことである。
 【弓道】第四には神主たちが平素から弓射に親しんでいたことがあげられるであろう。遠州の地は徳川家康興隆の地としての由緒により、早くから一般庶民に弓射の習練が許可されていた。そのため弓射は一般にさかんであり、遠州各地の寺院や神社では、祭礼の折などに競射会が奉納され、金的中の額の堂宇にかかげられたものが多い。そのため神主らは奉納の競射や神事を通じて弓に親しむ機会が多かった。
 【水野時代の経験】第五に安政元年(一八五四)神主弓隊の結成される数年前、それと類似した組織がつくられた経験のあったことである。天保十五年(弘化元年、一八四四)三月のこと、水野藩政下において農兵隊が組織されるとともに、神職をも隊中に加える計画がたてられ、同じ八幡社中において、竹山陽左衛門から三十余名の神官が弓の練習を重ねたことがある(前述)。このような経験がこんどの組織化にあたって大きな力になったと思われる。
 【文武奨励】第六に水野藩が神職に文武の道を奨励したことがあげられよう。天保十四年高林左衛門が竹山陽左衛門に出した入門の請書(高林家文書『記録之内書抜簿二』)によると、「今般御城主様神職之者江者、文武之道相励候儀被仰出、依之一同御門弟相願」とあって、弓術がさかんに行なわれるようになった事情をものがたっている。
 こうして第一~第三にのべた内外情勢の変化の中で、浜松の神主たちは主体的に行動し、第四以下にあげた具体的な諸条件にたすけられつつ、神主の弓隊を結成していったものを考えられる。