神主の弓隊は安政四年十一月には鉄砲訓練を開始する。【飯島新三郎】十一月二十九日『高林家日記』は「鉄砲入門の儀御沙汰有之候由」と記しており、神主の弓訓練が鉄砲訓練に発展すべきであり、藩の砲術指南役であった飯島新三郎(岡村黙之助の長子、わが国の寄生虫学の開祖とされる飯島魁(いさお)理学博士の父)に入門するようにとの方針が正式に出されたものとみられる。翌日高林左衛門が弓隊世話掛を辞退したのも、神主隊の鉄砲への切りかえが完了したからであったと思われる。これらは浜松井上藩の軍事編成が新しい構想で進められつつあることを示すものであり、その結果神主隊がたんなる加勢以上の重い比重をもった近代的軍隊への性格を与えられつつあったことを推測させる。
高林左衛門の孫、一郎が入門のため十二月二日飯島新三郎を訪れたところ、一郎のほかに十五、六名も同じ目的で来ていた(『高林家日記』)とのことであり、急速に新しい軍事編成がなされつつあったことを示している。【克明館】一郎らの鉄砲稽古は早くも十二月八日と十八日に行なわれており、稽古場所は藩校克明館ではなかったかと推測される。【和地山狩】安政五年二月九日と十八日の両度、和地山で追山と称して大規模な猪・鹿狩りが催され、家中の武士のほか、神主には鉄砲を貸与して参加させた。これはまさしく一種の軍事演習としての性格をもって行なわれたものと考えられる。
神主らの行なった鉄砲訓練は、はたして洋式銃によるものか、和銃によるものか、いずれとも断定することは困難であるけれども、飯島新三郎は父岡村黙之助の意をうけて、おもに西洋兵学を修めた人物であったから、鉄砲は和銃であったとしても、西洋式の銃隊訓練を行なったものであろうか。【洋式小銃】安政四、五年といえば当時井上藩にも、いくらかの洋式小銃(ゲベール銃)は当然あったものと思われる。わが国でいわゆる洋式小銃が実際に使われたのは天保十年(一八三九)ごろから後のことで、安政初年以降輸入されたものは雷管式となり、和銃にくらべて非常に有効なものであった。高林維兵衛が安政五年四月三日飯島新三郎から西洋流鉄砲古筒一挺を借覧した(『高林家日記』)というのもゲペール銃であったとしてよいであろう。神主の訓練も西洋式ゲベール銃による洋式銃隊訓練であったといえるかも知れない。「一郎稽古今日小隊組入先生より免許ニ相成候由以来二、七、五稽古ニ定」(『高林家日記』安政五年四月十一日条)とあるように規則的に訓練がされ、鉄砲整備法も教授される(『高林家日記』安政五年四月二十六日条)など、順調に訓練は成果をあげていったもののごとくである。【大砲試射】同年十月十九日、浜松南部海岸において高林一郎ら飯島新三郎とその門人たちによって大砲の試射が行なわれた。