海岸砲台の建設・軍制の近代化・領内神主の弓隊(鉄砲隊)の編成など軍事面の改革は、ややその成果をあげつつあったが、それだけに藩財政は一段と窮迫を告げていた。
浜松井上藩の経済基礎である土地は、どれほどあったのであろうか。岡村黙之助の書状(弘化三年九月十一日付)によると、遠州五万石余、播州七千石程、野州是迄館林付上々之所五千石余、下総六千石余、計六万八千石あったことが知られ、概算して遠州から五万三千俵、野総の地から四千二百七十一俵、播州から七千百七十一俵三斗五升、計六万四千四百四十二俵三斗五升の租米があると計算されている(『浜松市史史料編三』)。岡村の書状にみえる石高にくらべると野総両州から貢米が少なすぎるけれども、基本的にはこれだけの収入で一年間藩主以下多数の藩士を養い、国防費も捻出しなければならなかった。