財政対策

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 第二の時期は藩財政の窮乏がいっそうはなはだしくなったうえに、ペリー来航に象徴されるように諸外国の圧力が強まったため、井上藩としても国防力の増強がいそがれる事情におかれていた。藩の資金調達は専ら上方でされてきたがそれだけでは不十分かつ困難となったから、領内農民にたいしていっそう激しく貢租の増徴をはかり、領内の農商よりも資金調達する必要があった。したがって第二期の風儀の取締りと倹約令は藩の財政困窮対策としての面が、治安対策よりも優越した結果出されたものと思われる。嘉永六年あるいは七年のころから藩はさかんに領内農商からの資金調達に努めているが、風儀の取締りや倹約令を出したことは、藩の資金調達の基盤を強化するための布石であったといってよいであろう。【倹約議定書】このもっとも典型的なものが嘉永七年正月と思われる倹約議定書である。その内容は、一、村役人が御用を務めても郷宿で酒肴を飲食しないこと 一、博奕諸勝負は不可 一、祝儀・不祝儀でも一汁一菜のこと、魚も浜松の町で買ってはいけない、酒も村の酒造家の作ったものを買い、灘の酒などは町で買ってはいけない 一、着物も絹布はもちろん結城木綿・紬なども購入不可 一、浜松宿の伝馬町旅籠町などで遊女を相手に酒興は不可 一、凧の大きさは四、五尺以下、それも手作りのこと 一、おひなさまもこれに准じ町で購入してはいけない、ときめている。【目的】これは浜松藩領村々で安政元年から五か年倹約を申しあわせたもので、商品流通、貨幣経済の農村への浸透を極力くいとめようとしたものである。そしてこの時期に出た一連の倹約令こそ資金調達とともに藩のいう安政期藩政の「御仕法」「御改革」の中心をなすものであった。藩財政に関する具体的問題については、さらに別項でみていくことにしよう。