【倹約見積】安政二年の暮はよほど藩財政は窮迫したものらしい。藩の触に、来たる安政三年より五か年別段きびしく倹約し、明年より三か年は家中の武士の俸禄の借上げをふやすから、村方でもなお協力してほしいと要望している(『浜松市史史料編三』)。おそらく安政二年の冬に示した倹約見積りと思われるもの(高林家文書『記録之内書抜簿三』)によると、六万四千四百四十二俵三斗五升の総収入のうち一か年の御暮高として浜松御定用三千四百七十八俵三斗三升五合、江戸御定用見込六千四十七俵一斗七升五合、浜松御宛行一万三千五十六俵二升七合、江戸宛行見込八千六百二十俵計三万一千二百二俵一斗三升七合、差引三万三千二百四十俵二斗一升三合でもって、これまでの負債の消却、臨時入用にあてる計算であったと思われる。領内の農民たちはこうした数字を見せられながら、しぶしぶ資金の調達に応じたわけである。なおこの文書のあとに「右之外追々御仕法御頼之筋も有之候得共以下文略ス」とあり、その外にもいくつかの文書が示されたものと推察される。
安政三年五月藩主正直(まさなお)の参勤の日が迫ると、村役人を代官所に集め、改革中倹約のはずながら酒食を饗した。【調達金下命 安政三年】またしても調達金の下命のあったのは八月二十一日のことで(『高林家日記』)、この時示された内容は、年記を欠いているが、つぎの文書ではなかったかと考えられる。
一御勝手向不被遊御行届ニ付殿様御定飯迄被為詰御家中一同御借増被 仰付候儀御領分一統奉感伏多力之丹精を以当年ゟ来申年迄五ケ年之間高門ニ而年〻金弐千両宛出精御頼之事
一有玉辺水旱之愁無之村〻御物成之内ニ而年〻金千両宛当年ゟ同五ケ年之間壱割利ニ而御領分村〻ヘ貸付積立調達金返済元立之事
一弐割済并昨冬調達分五ケ年之間壱割利ニ而借居之事
但六ケ年目元利不残返済之事
右者折〻之天災ニ而御国江戸之御台共莫大之御入用等ニ而必至と御手詰ニ相成無御拠御頼被遊候条一同難渋を相忍呉候右之条〻偏ニ奉頼申候(高林家文書『記録之内書抜簿三』)。