中でも権九郎という農民は、村役人がたとえすべての調達金を出したとしても、我々は一切金を差しだすことはできない、といい放った。【高割拒否】庄屋見習で同席していた高林維兵衛は、「此者義ハ小前之内にても別物也」と日記に慨歎しているが、一般農民の意向は調達金の高割りは一切拒否の態度で、権九郎の発言と同じであった。とうとう激論は夜明けまでつづいたが収拾はつかず、もの別れに終わった(『高林家日記』)。
庄屋の長左衛門ら村役人一同は五日、「村内一同承伏不致、村役人迷惑之段申上」げ(『高林家日記』)、翌日ふたたび代官所へおもむき「村役人不残退役之願書」を提出した。
ここまでは村役人たちも一般農民と対立しながらも、一般農民側にあって行動をともにしたかのごとくにみえたが、どのような経緯があったのであろうか、十一月四日「殿様ニおいても御満足ニ被思召候段御挨拶有之、依之御改革中ニハ候へとも」、あとは例によって酒肴の饗応をうけ、ついで庄屋長左衛門へも苗字使用を許可された(『高林家日記』安政三年十二月二十六日・二十九日条)。