農民と村役人の衝突

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 当時村役人と一般農民との間には当然のことながら、かなり対立的な空気が生まれていた。そのため些細なできごとから、たちまち大きな事件に発展する場合もありえた。一例をあげると、安政二年十二月二十日、畑屋村仙吉の孫大八が、玩具の竹砲をうったところ、折悪しく善七の子清吉に軽い怪我をさせてしまった。子供同志の不注意から起こったものであったが、親の善七が大八を殴打したため事件は意外に発展した。それというのも善七が有玉下村の組頭を務めていただけに、その責任を問われ、調停にはいった村役人もその態度がよくなかったのであろう、一般農民から非難された。窮地にたった有玉下村の村役人たちは、畑屋村庄屋弥平二の助言で、全面的に非を認め詫状を入れざるをえなかった(『高林家日記』安政二年十二月二十日~二十三日条)。この事件は年貢米の収納の時期にも当たっており、隣村との対抗というよりも、一般農民層対村役人層という形で発展しやすかったのであろうが、一般農民層が村役人層を恐れず、彼らに対抗する勢は天保・弘化のころから急速に高まってきていた。