あくる安政五年も井上藩の農民統制と財政政策はとくに変化しなかったように思われる。五月二十日と六月十二日に大雨が襲い、農民たちに大きな被害があった。すこし前にさかのぼれば安政二年七月二十六、七日も大きな洪水被害があった(『高林家日記』)。これは嘉永七年の大地震によって痛められたあとでもあり、大打撃であったに違いない。【天竜川】その五年前の嘉永三年にも七月二十一日と八月八日、天竜川は子安前で再度堤防が決壊し、非常に大きな災害をおよぼした。
安政五年は資金調達と重税に苦しんできたうえに二度の水害にあい、この年の課税の決定は、農民たちにとってとくに重大問題であった。年貢の決定は例年になく遅れ、大晦日も終日紛糾したけれども決着せず、ついに年を越してしまった。有玉組合村々には不穏の動きさえあった。安政六年元旦、すがすがしい朝をむかえるべき有玉下村の庄屋高林維兵衛は、同役長左衛門から、急を告げる書付を受けとった。【減免の要求】それには大晦日の夕方から有玉組合村々の一般農民多数が、簑笠をかぶって杉山に集まり、浜松城下に押しかけ、畑方年貢の減免を願い出ようとしている、とあった。【安政の一揆 安政五年 有玉組合村】早速維兵衛ら村々の庄屋が杉山へかけつけ、農民たちに説得を試みたが、群集は七ツ時(四時)過ぎ、浜松へ向かってくり出した。この通報をうけた代官三浦勇次郎はみずから手代・同心をひきつれ、中沢の常楽寺(じょうらくじ)門前に陣どった。そしてすでに天林寺下まで押し出していた農民たちの要望をきき、今夜のところは神妙に帰村するよう言いきかせ、村役人を付き添わせて帰した。藩が一村ごとに農民の名前をききだすことを、忘れなかったのはもちろんであった(『高林家日記』安政六年正月元日条)。
この一揆は村役人を越えて直接藩権力にむかったものであるが、有玉下村の百姓半六ら一般農民は自分たちの調査と、村役人から藩に提出した内容とを調整し、村役人を一揆側にまきこむ形をとった。正月二十八日郡奉行から裁定がくだされた。すなわち有玉組合村々小前惣代に対し、「地親より多分之引米遣候上ハ小作之もの願之義難立候」(『高林家日記』安政六年正月二十六日・二十八日条)といい渡し、二月三日この一揆の代表者につぎのような処罰を命じた。