【半六】事件のすべてが落着したとみられる三月二十四日のこと、『高林家日記』によれば組頭・百姓代ら主だった者が庄屋の維兵衛を訪ね、「半六相願候義ハ心得違ニ付是迄之通庄屋役相勤呉候様申出候ニ付直ニ長左衛門殿へ行相談之上相届遣」ということがあった。これは恐らく、今回の事件をめぐって、庄屋長左衛門の退役を要求する声が高まり、長左衛門もそれを覚悟せねばならぬ状勢になっていたのであろう。その庄屋批判の先頭にたった半六なる人物は、さきに一揆の小前惣代として戦い、手鎖村預けの処分をうけた人物であって、右のできごとは半六らの処分が解かれた直後の批判と和解を示すものと思われる。半六は十数年前水野藩政下の天保十五年七月のこと、農民たちを苦しめた積毀仕法についてであったろうか、敢然としてこれに反抗したことがあった。「村役人に対したびたび過言を申、不届之至」と青竹をもって文字どおり閉門させられ、村役人の前に姿を現わさぬことを条件に、やっと処分を解かれたことのある人物でもあった。
半六はいまや小前惣代として、一般農民の中心人物になっていたのである。【伝兵衛】半六と同様手鎖村預けの処分をうけた伝兵衛もまた、弘化三年(一八四六)閏五月十日夜、当時の勧農世話掛庄屋六軒を打ちこわした一揆の重要参考人として、最後まで取調べをうけながら、一人の逮捕者も出させなかった数人の一人であった(『高林家日記』嘉永三年十二月二日条)。