植物仕法

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 井上藩が藩主以下一同、御仕法と称して数年間倹約を励行しようと、年貢米を担保に三都はもちろん、領内の農商から多額の調達金を吸収する消極的な方法をくりかえしているだけでは、藩財政の安定はありえない。何らかの新しい手がうたれなくてはならなかった。【新仕法】こうして新仕法として登場したのが、植物仕法であった。
 【安政四年】植物仕法が命じられたのは、安政四年(一八五七)二月であったと思われる。
 【僧侶 神主】世話掛として東漸寺・大山寺・法林寺・森讃岐・学園寺・富泉寺・清水要人・松島右門介を依嘱したように、一般農民を対象に協力を依頼したものではなく、僧侶と神主に期待をかけたもののようである。二月二十八日寺社役所から「近日之内追〻順村之上一同談示」の計画である、と各村々へ通達があった。有玉組合を例にとると、三月十九日植物御用掛惣代の森讃岐・法林寺から、三月二十四日有玉村竜秀院に集会されたい、と回状がまわされた。おそらくこの三月ごろ領内村々の神主や僧侶を各地にあつめて、植物仕法実施の具体策を検討したものであろう。
 有玉八幡宮・神明宮の神主たちが植場として、「和地山御林之内欠下村地付ニ而弐町歩程拝借仕度」いと寺社役所へ願い出たのが、安政四年の九月初めであった。九月十日には役人が出張し、有玉「神明宮社中西ニテ御林御渡ニ成」った(『高林家日記』)。【櫨植付】ここには翌年二月「櫨植付場為御見分」に寺社奉行の役人と掛りの神主が来ているので櫨(はぜ)が多数植栽されたものと思われる。
 櫨はその実から生蠟(木蠟)を製取し、生蠟は灯火用和蠟燭(わろうそく)の原料として重用されたところから需用が多く、収益もまた多大であった。そのため江戸時代中期以降、櫨の栽培は代表的な樹木農業として注目され、勧農殖産政策によくとりあげられた。井上藩が安政四年になってようやくこれを試みたのは、随分遅かったといわなければならない。というのは八代将軍吉宗は、すでに江戸城内吹上御苑をはじめ、各地に試植して製蠟を試み、以来熊本藩や福岡藩など北九州の諸藩では、寛延三年(一七五〇)以後重要産業に生長しつつあった。生産圏は中国・四国筋から中部地方にまで拡大され、文化年間(一八〇四―一八一七)大坂には蠟問屋仲間三十軒、蠟絞り屋・晒蠟屋各五十軒、仲買百軒、荷着問屋仲間および回荷問屋仲間それぞれ三十軒を数えるほどの盛況にあったことが伝えられている(大蔵永常『農家益』)。
 蠟産額のもっとも多かった福岡藩は、寛政八年(一七九六)から生蠟の専売制をしき、大坂にまわして莫大の利益をあげ、天保年間(一八三〇―一八四三)の生蠟売上高は二十万両にも達したといわれる。
 井上藩もこれにあやかろうと意図したのである。

四ッ池(浜松市幸町)