岡村黙之助はすでに安政二年(一八五五)九月「御為筋申上げ覚書」(『岡村父祖水蹟』)の中で、財政難打開のため浜松在住の藩士はもとより、江戸詰の武士とその家族も浜松へ帰して開墾に従事させ、藩主・重職自ら先頭にたって百姓の手をかりることなく、樹芸(櫨などの有用樹木栽培)などをすべきであると主張した。植物仕法は岡村のいう樹芸が実現された一つの姿であるといってよいであろう。
【楮・三椏】『岡村父祖事蹟』によれば岡村黙之助は養蚕を盛んにするため、良種の桑樹数万株を陸奥・出羽などから取り寄せ、藩士の内邸または堤防などの空地に植え付け、楮(かじ)・三椏(みつまた)も数万株を栽培したが、風土地味の関係か、これは期待はずれに終わったという。
【和地村 島の郷 四ツ池】黙之助は安政二年のころ率先して和地村の原野五十町、島の郷字四ツ池の二十余町の地を担当し、家族を率いて移住し開拓に着手した。茶桑のほか肥前・筑前・豊後などから櫨樹二十万株を購入し、その道の巧者をやとい栽培にあたらせた。また紀州から蜜柑(みかん)・桃(もも)・柿(かき)を取り寄せ、大和の十津川からいわゆる五十人衆なる者を呼び迎えて培植に従事させたと伝えている。
【三方原】このような記述を考慮にいれると、岡村が建白書を提出した安政二年のころ、岡村による三方原の開拓植樹が藩で許可されたらしく、おそらく岡村黙之助のこの成績などを参考にして植物仕法が、神官・僧侶らの労働力を動員し、彼らの保有する山林原野・空閑地の活用を期待する形で実施に移されたものと思われる。