軍事面では彼の『海防私考』の趣旨を展開しつつ西洋兵制採用の必要を力説している。すなわちこれからは舶来の原書により兵制訓練をせねばならぬから、才能の優れた者を数十人えらび横文字を学ばせること。【賀古公斎】それには町医師賀古公斎を克明館に迎えて教師とし、横文字理解の基礎ができたら村上代三郎の指導をうけること。西洋の原書は藩校に架蔵すること。馬軍も西洋流にすること。大砲や弾丸の製造は家中の侍が自作できるようにすること。大砲発射の試験の際は家中の婦女子までも見学させ、馬も同様音響に馴れさせること。
かくして黙之助はすでに西洋砲術を修めて、これを大坂で講じていた貞次郎のもとに、播州浜松領の蘭学者村上代三郎らをつかって蘭書を翻訳し、それによってフランス式80ポンドおよび60ポンドのペキサンス(砲名)、その他陸戦用の大砲21門、ならびに弾薬、付属器械一切を製造し、これを浜松へ輸送し海岸台場にも配置した。【鉄砲製造】また歩兵銃数千挺を新造し陸戦用に備えた、と『岡村父祖事蹟』は記している。この銃砲の製造に関して、鋳造場所や費用など具体的なことはまったく不明であるので、『岡村父祖事蹟』の記述がどこまで信用できるか、心もとないけれども一応紹介しておく。