【文久元年】藩主井上河内守正直が寺社奉行になった祝いのため、文久元年(一八六一)三月二十九日、資金調達等藩政に貢献した村々の庄屋、古新独礼の者一同は、揃って浜松城の御殿へ集められた。そのあと代官から大略つぎのような話があった。それは可睡斎から祠堂金百両を借り入れ、困窮者救済のため村々へ貸し出したい。ついては借主には池川の天林寺・上飯田の竜泉寺・有玉の竜秀院・三島の神宮寺がなるが、質物としては有玉下村と上飯田村とて、それぞれ村高のうち高十石目書きいれるように、というのであった。これは農民の撫育を口実に、新たに編み出した巧みな藩資金調達方法といえよう(『高林家日記』)。
藩主が幕府の要職に就くことは、大きな名誉とされたが、藩主の交際費や滞在費など、藩の支出は激増し、藩財政はたちまち窮乏におちいるのが当然であった。さきの借金申入れも増大する藩の御用資金を調達する苦心の策だったのである。【献金令 】文久元年またこの年の秋に予定していた献金三千両(高百石につき三両三分の割合)を、すぐ出金するよう通達した(『高林家日記』文久元年六月九日条)のも、藩主の加役のために生じたものであろう。