【文久二年】文久二年七月といえば、幕府は勅旨を奉じて、政治改革に努めつつある時、またまた浜松領分村々で金千両、高百石につき二両二分の割で出金するよう命令があった。九月十二日江戸表より重役の永田権六が浜松に出張し、代官ら列座のうえで、集めた村役人に一層資金調達の協力を依頼した。【違作】この年の夏作は旱害と水害のため、木綿作は収穫皆無同然の大違作で、稲作も良くなかった(『高林家日記』文久二年七月三日・九月十一日・十月朔日・十一日条)からそれだけに資金調達のため、わざわざ重役を派遣したのであった。
【切手支払】藩はさる七月の調達金は、当分返還中止と発表したことが、農民の猛烈な反対にあったので、これまでの分は元利残らず「十月中ニ切手ニテ相渡可申候間、右金高丈当霜月廿日頃迄ニ調達相頼度」と頼みこみ、藩札による支払いで不本意ではあったが、農民たちもやむなく承知したのであった。その一方、農民たちは十月、生活難渋のため拝借米をぜひ下されたいと代官所に願い出る始末であった。