藩はこの十四名を格別優遇した。藩主自ら筆をとって「和」の字をしるした木杯一個宛十四名にとらせたのもその一例で、資金調達に努力するよう要望した。仕法掛の名のもとに、選ばれた農民が藩政の中枢部分にたずさわるのは、井上藩としてはじめてのできごとであった。
彼らがどのように活動したか、詳細は不明であるが、十一月には五名の仕法掛が江戸で活動をしており、小栗らによって仕法金利子勘定帳も作製された。浜松の豪商で御用達であった柳瀬権左衛門・大庭平兵衛・池田庄三郎らとも協力して、藩財政の建直しに努力している(『高林家日記』)。