幕府の要請に応じて天狗党にそなえ浜松藩も三ヶ日方面に出動することとなり、十一月二十六日仕法掛は役目柄、一番手に三人、弐番手に四人計七人が出張するように、と勘定役所より命ぜられた。彼らにはどうも釈然としないので、高林と小栗の二人は飯島新三郎に兵糧方とはいえ、軍陣に出張するのは当然とは思われない。非常の際米穀を買い入れ、金子を工面し兵糧についても在所で取り計い用弁するのが、この役目と思うがどうかと訴えた。いよいよ二十九日、二の丸に勢揃いして出兵ときまったが、飯島新三郎の了解もあって仕法掛は出張を見あわせたいと申しいれた。しかし二十九日の夕方、天林寺に一番手、二番手の部隊が出兵する状況となって飯島新三郎からやはり御用達・仕法掛とも出張しなくてはならぬ、極密であるが天竜川筋信州飯田辺まで手配し、水戸浪士の動きを探索するように、と新任務を命ぜられた。【仕法掛拒否】しかし三ヶ日出張の件は仕法掛は一致して拒否してしまった。
井上藩兵は三ヶ日まで出動しただけで、水戸浪士とは全然接触することなく、まもなく引き上げたが、仕法掛の十四名にかぎらず十分な戦意を懐いて出かけた者は、おそらくいなかったことであろう。【出動費調達】この小規模の出兵をしただけでも「今般三ヶ日村御出張入用三千弐百両余」を急ぎ調達せねばならない(『高林家日記』元治元年十二月十五日条)という、底の浅い藩財政であったのである。