山本大隅の記録

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 浜松の人々が水戸浪士の西上をどのような気持ちで聞いたのであろうか、山本大隅は元治元年六月二十六日「大平山・筑波山の浪士は水戸侯が取押えたような御触の趣だ」、七月二十五日には「七月十六日筑波山にたて籠った水戸浪士三万人と討手二万と大合戦になり、討死おびただしく十五日より十八日まで討手十三万騎が出立したそうだ」、京都の禁門の変のことも記して「いかがなりゆく世の中か心配だ」と感想を日記に書いている。水戸浪士が伊那に入ったころ、山本大隅は十二月朔日の日記に「信州高取(ママ)ニテ合戦有之候由、武田伊賀守(武田耕雲斎)大将ナリ、水戸侯若年寄ナル由八百人ニ馬百疋、此頃信州ヘ浪人千七百人計リ集リ居候迚金指陣屋ニテハ昼夜百姓五十人ヅヽ十五人又十六人ナリテッポウ持タセ、毎日昼九ツ時替リニテ詰居候ト申事ニ候又浜松侯抔ニテモ用意有之由同侯鳳来寺御カタメ被成候」(『山本大隅日記』)。
 信州より美濃を経て北国へ向かった水戸浪士たちは折からの寒気のため、雪中難行軍をかさね、水戸烈公の息子である一橋慶喜の出動するをみて、これをたよりに降服した。しかし水戸浪士に対する処分はきわめて厳しく、浪士によせられた同情は大きく、幕府は世人からはげしく非難された。山本大隅はこの件につき日記につぎのように記した。
 
「昨冬北国へ罷出候正義浪士先達而首打候趣、風説有之候処、実とも覚エ不申処、弥相違無之由ニ候、右ハ武田伊賀守耕雲斎ト云タリ人田丸左京稲(イナ)之右衛門ト云タル人ヲ始メ三百九拾五人打首、弐百九十人嶋流し、百九十人たたき払、十二人寺へもらひし者、
 武田耕雲斎老翁年七十五同人のよめる歌聞書
  うつ人もうたるゝ人心あはれなり おなじみくにのたみとおもへば(以下三首略)
 猶種々聞書アリ首打たるゝ節ノ大丈夫ナル 目を驚カセリ別紙ニ記ス」
 
 山本大隅は慶応元年(一八六五)四月十七日に伊場村の神主岡部次郎左衛門家の月並歌会に出席し、十九日まで同家に逗留し、二十日には浜松愛宕下の池田庄三郎家の月並歌会に出席逗留して、水戸浪士の最後の模様を聞き、感動のあまり書きしるしたのであった。