凶歳御手当

401 ~ 403 / 686ページ
一、凶歳御手当之事
 凶歳にそなえてこれまでも貯穀してきたが、財政が悪化すると自然他へ流用されてしまう、今度からは断然凶歳非常に備え、御囲をすることが、仕法改革の第一義である。
 以上述べた建白の内容は、はたしてどれだけ藩政の実際にとり入れられ、仕法掛が働き甲斐をもちえたことであろうか。すでにみたようにこの建白書の出される前、繰り綿を藩が買いとり、領外に売り出していたが、どれほどの規模であったか、その全貌は不明である。しかしながら浜松周辺の村々の木綿・砂糖・生糸等の生産の高まりに相応じた建策であったことはいうまでもない。【豪農商の自信と意気】積極的な重商主義的政策の立場に貫かれたこの建策は、藩経済を動かす浜松地方の豪農商の自信に満ちた、さかんな意気を窺うことができるであろう。これまで農商の民が愚民とあざけり卑しめられてきたにもかかわらず、不断の努力によって、いまや武士階級の相談相手となるほどに成長したのである。
 しかしながら仕法掛の意図は、封建的な井上藩政の中に、すぐさま十分に生かされなかったし、その見とおしもまだ甘かったのであろう。支配階級の矛盾は予想外にひどく進行していたのである。【辞職願】建白書の出された三月ほど後の閏五月には、仕法掛十四名は全員総辞職を願い出ている。
 【三ヶ日出兵】それによれば、はなはだしい出費の原因は、水戸浪士に備えた三ヶ日出兵と、公家衆警衛ならびに将軍進発の三つをあげている。【公家衆警備】三ヶ日出兵は前述したが、公家衆警衛とは何をさすのか、おそらく慶応元年三月のころ、徳川家康の二百五十回忌が日光に営まれる関係で、浜松宿は関東へ下向する大名の通行が多く、朝廷からも使が下されたことをさすのかと思われる。とくに助郷村々の農民の負担は大変なもので、農民たちの間に不満の声が高まった(『山本大隅日記』慶応元年三月二十日条)。それより前の元治元年(一八六四)十二月三日、ものものしい武装で評判だった松前伊豆守の将軍家名代としての京都行があり、慶応元年正月二十七日は老中松平伯耆守宗秀の大兵通過(『浜松市史史料編五』)もあった。井上藩としても格式の高い通行には、かなりの応接費用を要したものであろうか、たびかさなる通行で農民たちの負担も大変であった。
 【将軍進発】つぎの将軍の進発とは家茂が第二回長州征伐のため、慶応元年閏五月三日浜松城に入り、ここに四日間逗留し、六日に浜松城を出発したことをさしている。たとえ四日間でも将軍の逗留ともなれば、城内各所を壮麗にせねばならず、兵員も多数駐屯したから、種々の応接もあり、これに要する費用は莫大なものがあったと思われる。将軍が無事浜松を出発できたのを祝して、慰労の意味もあったのであろう、村役人をはじめ一般農民にまで祝酒を給した(「奈川新田書留」『浜松市史史料編五』)。【資金調達の辛苦】したがって仕法掛一同に課せられた資金調達の辛苦は、実に多大なものがあったと思われる。