長州再征ならびに将軍について浜松の人々はどのように感じとっていたのであろうか。将軍家茂の武運長久を祈願して、千度詣をしたり、拍子木をたたいて警備してまわる村々もあった(『山本大隅日記』慶応元年五月十六日・二十一日条)が、一方「将軍様異国人ノ出立ニ而其上ニ陣羽織御着用(中略)、此度打死之御覚悟ニて石塔之紋ナリトノ評判ニ候、又朝夕観音経御よみ被成候ト也」「浜松五社・諏訪等ゟ御参詣相願候処一向ニ不叶、御札献上も不叶由、然処ブンギノイナリトカ云テ本陣持之小社有之由ソレヘハ御参詣ニ相成、又四、五年以来流行らせ候舞坂ニ釈迦有之由、其札ハ一万七千枚用意いたし、それそれへほどこし呉候様被申渡候と也、皆人無審ニ被申候」浜松宿の人々をはじめ、これを聞いた人々はみんな不可解なことに思い、うわさしあったのである。さらに「又駿州久能山ヘ三度御参詣ニ被登候処、風雨ニて御参詣不相成トノ評判、浜松ニて御厩コロビ候と也、舞坂ニて船ニ乗候節頭シタタカブチ候と也」と例によって山本大隅は人々の風聞を書きしるしている。これでは将軍もだいなしである。将軍が浜松を進発するか、しないかの当座にすでにこのような目で人々はみていたのであり、浜松の民衆は第二回目の長州征伐を行なうことの不可なることを、こう表現したのである。じつに目先きの名分にとらわれた幕府の要路者よりも、愚民とさげすまれたはずの民衆の方が、はるかに時勢を鋭く感じとっていたことを示しているであろう。
『さばえのさわぎ』にも山本大隅が、三河の神主加藤監物や有玉下村の国学者有賀豊秋らと、「幕府の長州再征の命に応じることは果してどうだろうか。【幕府を批評】長州は君臣一体となって幕府と戦う決意とのこと、恐れ多い世の中になったものだ」との内容の某書翰を交換しており、これらの人々がいかに時勢を憂え、幕府に対して批判的になりつつあったか、うかがうことができると思う。