仕法掛のその後

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 仕法掛のその後の活動はどのようであったか、史料も乏しいせいもあって、めだった活動もなかったようにみられる。慶応元年九月、十月のころ、仕法掛は藩役人とともに田畑の季明けの見分を行なったりしている。この年の麦(むぎ)の収穫が少なかった(『山本大隅日記』慶応元年五月六日条)こともあって、農民救助のため畑方御手当米が下賜された。稲作もよい出来ではなかった。そのため仕法掛の資金調達は必ずしも順調ではなかった。仕法掛のうち五名は郡奉行飯島新三郎とともに夏秋江戸にあり、種々構想もあったのであろう。十月末江戸に滞留した五人の仕法掛の面々は、飯島新三郎と帰国したが、仕法掛一同の命ぜられたのは、江戸上屋敷に長屋を造ることであった。【調達金下命 慶応元年】十一月には仕法掛一人宛金百両、計壱千四百両の資金調達が課せられたが、その外にとりたてた動きはなかったようである。ただ農兵隊の結成に一役を担うが、これは別の節に述べることにしよう。