今度の農兵取立ては、最初からきわめて具体的であった。九月二十日までに農商兵の氏名を報告するよう命じ、報告のない村々には「人数取調ニ差支候間取定リ次第夜中ニ而茂出浜可致」と飛脚をもって廻状をまわさせるなど(『高林家日記』)、なみなみならぬ力のいれ方であった。二十二日も催促の廻状がまわされた。一般の農民たちが反対して、容易に人選が進まなかったものであろうか。これまでも農兵隊の設立は、天保十五年(一八四四)と安政二年(一八五五)に試みられ、ほとんど実用的な力となりえなかった。というのも藩の意志より農民側の抵抗の力が勝っていたからであろう。しかし今回の農兵取立ては、これまでになく激しい意欲をみせた。こうして出来たのが、つぎにかかげる「農兵名前帳」である。
一、農兵稽古所 有玉畑屋村招月院
(重立掛)鈴木権右衛門 高林維兵衛 栩木孫十郎 山本桂助 源馬喜平治 半十郎
有玉下村 畑屋村 町田村 上瀬村 松木嶋村 新村 欠下村 小池村上組 下組 下大瀬村 万斛村 橋爪村 西ヶ崎村 漆島村 上大瀬村 上前嶋村
重立五人 農兵六拾壱人
二、稽古所 羽鳥村源長院
松島忠兵衛 小栗武右衛門 山下佐次兵衛 田中新右衛門 小野源右衛門 河合三左衛門 鈴木久大夫 佐野長右衛門
羽鳥 高畑 恒武 中原 横須賀 沼 西美薗 本沢 油一色 東美薗 中瀬 永島 八幡 上嶋 上神増 松木嶋 三っ家 高薗 倉中瀬 笠井 白鳥 大見 長命 大明神 常光 松小池
重立八人 農兵四拾八人
三、稽古所 入野村永福寺
竹村田三郎 藤谷嘉兵衛 重三郎
宇布見 西鴨江 入野 富塚 西追分 東追分 富新屋 馬生 小籔 寸田ヶ谷 馬 船
重立三人 農兵三拾九人
四、稽古所 橋羽村妙恩寺
竹山平左衛門 篠ケ瀬四郎左衛門 竹山孫左衛門 加藤秀蔵 松山平六
下堀 天王 中田 上新屋 丸塚 佐藤 西塚 西伝寺 上之郷 原嶋 上飯田 長鶴 竜光 北嶋 天新田(ママ) 永田 宮竹 篠瀬 橋羽 薬師新田
重立五人 農兵五拾弐人
五、稽古所 入出村正太寺
石田平右衛門 杉浦次郎八
横山 利木 上尾奈 下尾奈 入出 太田 神座 大知波
重立弐人 農兵二拾八人
六、稽古所 三ヶ日村稲荷社
石川喜左衛門 伊藤七郎左衛門
佐久米 都筑 大崎 駒場 津々崎 宇志 三ヶ日 釣 日比沢 本坂 鵺代
重立弐人 農兵四拾三人
七、稽古所
大石孫左衛門 斎藤七郎右衛門 引馬伝三郎 鳥井太郎右衛門
(中略)
惣、𥡴古所拾か所 村数百七拾一か村
重立三拾五人 農兵四百六拾九人 (慶応二年九月)