改革の一環

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 井上藩の慶応年間の藩政改革を特徴づけたもう一つは、浜松城下より浜名湖を経て遠州灘に船を通し、商品流通の増大をねらったことである。内願書(『浜松市史史料編三』)によると、「上新町(当市菅原町)浦より舞坂宿迄通船之儀」は文久三年(一八六三)より前三か年間の平均で輸送の収益を計算してみても、新掘割の入用などを払ってなお浜松宿に利益をもたらすことは少なくないと見込まれたので藩へ願い出た。藩側でも乗り気で、すでに幕府の許可もえて古堀分は泥浚が完了した。【農民の不満】さらに圦樋を水門に替えたり、新規に掘り立てる水路の左右杭柵も買い入れ、掘立て人足の手配もすんで、ようやく掘り始めようとしたところ、一般農民の間に、助郷惣代の主だった者に対する不満が起こって不穏な空気が強まり、掘割をつくるのはよくないなどといひふらしている。この通船工事は去る慶応元年九月、一同相談のうえで開始したものであるが、近ごろはこの工事に尽力した助郷惣代の者に打ちこわしをかけるなどとうわさがとんでいるので、掘割工事完成の目あてもつかず、一般農民が、これ以上人足をさし出さないといい出せば収拾がつかなくなってしまう。しかし藩より内々の話もあるので、それまでとりかかったところは助郷方で損をしても掘割を完成させたいと思うが、新堀は新しく財政措置をされて作られれば、その費用は商人・問屋の諸運上によって、速やかにうめあわされ利益になると思われるので、ぜひこの新堀分は藩側でまかなっていただきたい。もっとも古掘割が完成しても不便利のところができ、万一埋まってしまった時の保証に金弐百五拾両利付預け金として用意しなければならないが、藩側で資金をととのえ、掘ってくださるなら、これも必要ないことなので好都合である、といっている。