しかし一方、一般農民たちは年を追って増加する御用通行の継人馬になやみ、人気は益々不穏となり、助郷惣代庄屋はいかなるとりはからいをしているのか、疑惑を抱いた三嶋村定七ら十三か村の代表は、慶応三年四月ごろ藩に出訴した。彼らは慶応元年暮より慶応二年中の助郷諸帳面を残らず写し取り検討したものの、不正を発見できず、藩の決裁にもちこんだが、一般農民側の敗訴となって処罰された。【議定書交換】しかしそれとともに五月一般農民と助郷惣代庄屋との間に議定書がとりかわされた。
【協力決定】議定書では第一に新川の掘立てが、公辺御願済みの上はいまさら中止できない命令である、というので一般農民は掘立て完成に協力することを約束した。新川掘立ての費用は千二百八十九両三分一朱余にのぼっている。慶応元年九月一般農民は、新川掘立てについて疑義をいだき助郷惣代庄屋に対して談判したが、その後、助郷惣代の庄屋らが新川掘立ての費用を出金しているというので、一般農民は何か不正があるのではないかと問題にした。しかし結局庄屋たちは自己の利益のためでなく、七十八か村のためにしたことで、公金を横領したというのではない、一般農民のいうとおりにするならば、各村々よりこの費用を割り出さねばならず、それでは無用の手数がかかるゆえ、発起の庄屋たちが出金したことを説明し、ようやく一般農民は納得し議定するにいたった。