慶応元年より三年にかかる時期の新川の掘立工事は、はたしてどれだけできたものであろうか、明治四年(一八七一)のこと、徳川藩浜松奉行井上八郎(延陵)の尽力で、浜松七軒町より入野村へ通じる掘割が完成し、七月二十八日より七軒町から新所村(湖西町)まで船が通うようになったが、この新川とよぶ運河(堀留運河)が、比較的短期間に成ったのも、慶応年間に開掘された水路を、基礎にしたからではなかったろうか。とすれば慶応年間の掘割が、現存する堀留運河ほどに立派でなくとも、助郷惣代庄屋たちの熱意と農民たちの努力によって、かなりの水路が掘り通されたのであろう。【新川】経費と労働力の節約の上からも、既存の水路を利用するのが当然であるが、明治四年に成った掘割が、はじめ新川といい(「松坂春英雑記」『浜松市史史料編五』)、慶応三年の掘割と同じ名称で呼ばれていることも、もとの水路を改修したことを示すと思われる。