黙之助の通舟案

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 これより以前、浜松城下から舟を浜名湖にいれ、今切をへて大坂・江戸まで乗りいれることを考えたのは、岡村黙之助であった。安政二年九月、彼は「御為筋申上げ覚書」の中で、
 一、通舟の事
【入野川 平田川 寺嶋川 法雲寺小橋 元目御堀】一、田方水はきの為メニ近来出来候入野川より明神の村迄、掘割候井筋を成子坂町と猿屋町との道ばた迄掘割、又夫より古小川筋を平田川下も伏樋ニ通し、夫より寺嶋川へ掘通し、法雲寺の側小橋より元目御堀迄、舟通ひ候様相成候はゝ、今切より舟の出入自在を得て関西・気賀・金さし等迄、運転自由自在ニ相成、江戸・大坂江之航海も御城下より速ニ出来候はゝ、万物の価賤く相成、御城下の富有、公私の利潤計り難き義と奉存候、尤川幅狭く候間、所々ニ舟溜リを付ケ、往返通舟も区々ニ不相成様、入野舟何十艘とか一時ニ入リ、又浜松舟何十艘一時ニ出る様ニ途中川中行違なく通舟仕候はゝ、小川ニ而も差支申間敷かの事、
 と述べている。入野川より明神野村まで水はけ用水路がつくられたのは、嘉永六年(一八五三)正月である(「変化抄」『浜松市史史料編四』)ので、これが出来て二年余りのち、上述の岡村黙之助の着想となったわけである。岡村のこの意見は、助郷惣代の庄屋や御仕法掛の者たちも、知るところであったはずである。【改革の中心人物 飯島新三郎】というのは、彼らを指図して慶応年間の藩政改革を行なった、その実施上の中心人物である郡奉行飯島新三郎は、岡村黙之助の長男であり、黙之助の四男善次郎もまた三嶋村の庄屋土屋家に養子するという人間関係にあったからである。岡村黙之助の意見と、助郷惣代らの新川掘立ての意図、あるいは御仕法掛の建白書の内容とが、改革の基本的な方向において、まったく一致しているのも、三者がそれぞれ当然たどりつくべきはずのものであったからともいえるが、こうした人間関係によってもたらされた面も大きかったと考えられる。