慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の号令が出され、小御所会議で徳川氏の処分が決まった。憤激した幕府側は、薩長ら倒幕派の挑発に乗り、慶応四年正月三日、ついに京都郊外鳥羽・伏見で戦端が開かれた。鳥羽・伏見戦の勃発こそが、佐幕か、倒幕か、諸大名らの日和見の状態に決断を迫ったのである。【去就に迷う井上藩】しかし正月の半ばころまでは、倒幕派と旧幕府側と両方から、それぞれ別の命令が出されていたから、井上藩のように格式高い譜代藩は、どちらの命に服するか、大いに困惑していたことであろう。信すべき情報に乏しく、判断を確実に下すことはきわめて困難であった。浜松城下は鳥羽・伏見の戦に敗れて脱走した兵士らも通過して、騒然としていた。