勤王請書の催促

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 正月十五日京都側から出された会桑両藩らの処分と鎮撫使派遣とを、遠州に徹底せよとの命は、さきの慶喜追討令とともに、井上藩に大きな衝撃を与えたにちがいない。これをうけて正月二十四日、浜松から名古屋に出張した津川矢柄と音羽由蔵は、さきの尾州藩経由の通達に対する請書は、各藩・旗本より個々に提出するのか、それとも井上藩が請書をまとめて提出すべきか伺いたい、と口上書を提出した。これはいかにも消極的な態度であった。藩論を決定できぬままに、時間をかせいで周囲の情勢の変化をみながら、藩の態度をきめようとする日和見の姿勢そのものであるといってよいであろう。そんな井上藩の気持ちが見ぬかれたのであろうか。遠州の各藩・旗本より請書を取り集め、井上藩が至急勤王証書を徳川慶勝を通じて提出するよう、催促されたのは当然のことであった(「浜松藩記録」『浜松市史史料編五』)。
 しかし井上藩は何時勤王証書を提出したものであろうか、正月中にこれを提出した確証は見あたらない。【勤王誘引係の来訪】井上藩の曖昧な態度と尾張藩の再度にわたる勤王誘引係の浜松来訪からみれば、、尾州藩の満足すべき勤王証書は、二月初めまで提出されなかったと思われる。井上藩が表面勤王を表しながらも、なお十分なる信用をおきがたく、態度の確認を必要としたのであろう。井上藩の勤王証書の提出がほぼ確認されるのは、二月に入ってのことである。