藩論決定の事情

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 鳥羽・伏見に開戦してより、すでに一か月余を経過し、事態は旧幕府側にとって、ますます不利となる一方、倒幕派にとって情勢は有利に展開しつつあった。当時井上藩においても、その時勢の推移が理解されないはずはなかったけれども、藩の重役たちは主体的な立場で、果断に積極的な行動をとることができなかった。重役らが決定に手間どっているうちに、周囲の状況はどんどん変わって井上藩は常に受身に立たされ、抜きさしならぬ状態にひきずりこまれていたといってよいだろう。
 井上藩が年寄浅村勝司の名をもって、勤王尽力の願書(『浜松藩記録』)を尾州藩に提出したのは、二月八日の尾藩勤王誘引係来浜に際してのことであったかも知れない。さらに城代井上織部以下家老・年寄の連署をもって、近傍の諸侯と申しあわせ、勤王のため勉励努力し、尾州藩の指揮にしたがい出兵すること、藩主より勤王証書を提出すること、旧幕府領の取締りおよび名古屋城下に重臣を常駐させることを誓約した(『浜松藩記録』)のも、二月十一日ころの第二次尾州藩勤王誘引係の説得にこたえたものであろう。このように浜松井上藩は二月十一日前後東海道鎮撫総督からの圧力、京都における井上藩への動員命令、尾州藩の再三にわたる説得と、さらに浜松領内の広汎な民衆の、幕藩政治非難の動きにささえられた、神官層を中心とする豪農商の勤王倒幕への傾斜とが、相互にからみあって井上藩を圧迫し、ついに勤王倒幕に組することに藩論を決定させたのである。
 佐幕か倒幕か、藩論が凝縮して倒幕にきまるまでには、どの藩においても表面大義名分を口にしながらも、さまざまの権力争いが陰に陽に展開された。血で血を洗うような激烈な藩内の闘争を経て、藩論の統一のはかられたところも幾つかあった。浜松井上藩においても多くの内部抗争がくりひろげられたことと思われるが、それらの内容はよくわかっていない。当時井上藩で日本の近代化のため開国をとなえ、もっとも開明的であったのは岡村黙之助義理・貞次郎義昌の父子らで、そのゆえにこそ却って佐幕派の中心人物とも目された。【岡村義理閉門】そのためであろうか、藩論の決せられようとする二月初めころ、岡村父子は「御疑の筋これ有り」との名義で、突如閉門を命ぜられた。【内田正 三村清景】藩校克明館に学んでいた若者の中には内田正や三村清景らのように、決起して岡村義昌を暗殺し、もって藩論を一決しようとの計画を懐くものもあったと伝えられる(『岡村父祖事蹟』『大久保春野』)【足立良斎】やはり同じころ町医者足立良斎は、浜松井上藩が倒幕軍の東下にあたって、新居の関にこれを迎え討とうとする意見に反対し、勤王の大義を知らずして佐幕の小節に泥むと、痛烈に批判し大書したものを、浜松城の門壁に掲げ、ついに藩論を勤王に一変させた、と伝えられている。戊辰戦争が始まってまもなく、旧幕府が関所の警備を厳重にするよう井上藩に命じた事実もあっただけに、一層佐幕か倒幕か藩論の動揺していた事実を反映して、新居関迎撃が噂されたものであろう。足立良斎は熱烈な勤王の志をもった浜松の町医者で、藩命により、井上藩をおとずれる志士の応接の任にあたったと伝えられるように、右の挿話はかなりの文飾はあるにしても、勤王の論客たる彼の面目をうかがわしめるものであろう。これらの伝えがはたしてどこまで事実を物語るか、直ちに決めがたいが、井上藩が二月十日前後まで容易に藩論を決定することができず、おそらく伝えられるような思いきった処置がとられなければ決断できなかったものであろう。