現在みられる隊員名簿によると総員三百六名をかぞえ、うち二百八十余名が神主、農商十・僧侶三・武士五、そのほか医師などより構成されていた。【進撃隊 残留隊】このうち大総督府軍の江戸進撃に従軍したもの九十名、国元に残り有事にそなえて銃隊訓練を行ない、資金・資材の調達確保の任にあたったものが約八十名であって、これらのほとんどすべてが神官と村落自治の面で大きな社会的役割をになう村役人とからなる村落支配者層というべきもので、ゆらぎつつあった神官の村落支配をひきしめ、これを強化するとともに天皇制支配の絶対化を下から推進するはたらきを持ったといってよい。【東海地方神官運度の中心】しかもこれとほぼ同様なうごきを三河・駿河・伊豆という東海道諸国にひきおこし、実にこの地域の神官運動の中心となったことも注目されよう。まことに報国隊の運動は、地方的な一出来ごととしては片づけられない普遍的で重要な意味をふくんでいるように思われる。
以下報国隊の活動経過をたどっていくと、鳥羽・伏見開戦の報をすばやく知った浜松地方の有志は、正月六日浜松藩御用商人池田庄三郎の別荘、比礼廼舎(ひれのや)に歌会と称して集まり、王事に尽くすことを議決したといわれる。【国学研究会】この日の集まりにどのような人々が出席したのか、おそらくは元治元年(一八六四)のころより、国学の研究と歌会を楽しむことを目的とした国学研究会の人々の一部であったと思われる。
【池田兄弟 長谷川権太夫 桑原真清 有賀豊秋】国学研究会の顔ぶれは、浜松木魚町、四百石どりの士分にとりたてられていた御用商人池田庄三郎をはじめ、その弟で分家の池田庄二郎、伊場の加茂社の神主岡部次郎左衛門、伊場県居霊社神主の岡部与三郎、宇布見天神宮神主の中村源左衛門、掛塚川袋牛頭天王神主の長谷川権太夫、新所村八幡神主内藤山城、参野津毛利神社神主桑原真清、山本大隅(のち金木)、宇布見金山社神主加茂備後(のち水穂)らと、有玉下村の農民有賀豊秋、ならびに東三河の有志数名を含む、あわせて十数名で、すでに慶応二年この大部分が平田篤胤没後の門人となっていた。【山本大隅】彼らが比礼廼舎のほか、宇布見の中村家や伊場の岡部家にも会して、国学の研究とともに時事を論じ、種々の情報を交換しあったことは、山本大隅の日記や『さばえのさわぎ』三冊に歴然たるあとを残している。

桑原真清像(国事鞅掌報效志士人名録)