遠州随一の富豪で藩財政と密接な関係にあった池田庄三郎、あるいは彼の弟の池田庄二郎、庄三郎の兄竹山孫左衛門とその一族竹山平左衛門ら領内豪農商や神官層、あるいは足立良斎や藩士らの動向は、もはや藩上層をしていつまでも佐幕に拘泥することを許さなかったのであろう。浜松井上藩が出兵の請書を提出したのは、ちょうどこのころにあたっていた。
吉田藩がすでに尊王と決まり、尾州藩・岡崎藩、さらに掛川藩と近隣の親藩譜代の諸藩がつぎつぎと勤王に決定し、井上藩も勤王に踏み切ったことは、若干の豪農商をふくむ遠州神官層の勤王運動を一層活発なものにした。
尾藩勤王誘引係は、浜松諏訪社大祝杉浦大学・中村源左衛門を呼んで、「士農工商を論ぜず説得すべし」と勤王誘引を命じた。これには尾藩に属して尾藩のために活動せよとの趣旨もあったらしく、遠州の神主側の不満をかった。尾藩士は杉浦大学の無礼をせめて、彼に謹慎を命ずるという事件もおこった。十一日尾州藩の第二次勤王誘引係が浜松に来たので、これをまじえて池田庄三郎・足立良斎・桑原真清の三名は、杉浦大学謹慎問題について会談し、尾藩士との対立はようやくにして解消するといったこともあった。
【独自の行動】かくして遠州の神主らは、いずれの藩にも属さず、有志を集めて独自の行動をとるべく、報国隊の結成を具体化するにいたった。遠州の神官としては、当時諸藩の動向が勤王にむかいつつあったとはいえ、はたして勤王かどうか、十分信用しうる段階ではなかったので、藩に従属してその指揮下に行動することは、思いがけなく朝敵行動をとることにもなりかねない危険があり、神主の真意があらわれないおそれがあるとして、これをさけることが賢明と考えた。
【駿州赤心隊】十三日桑原真清・大久保初太郎・朝比奈内蔵之進(日坂八幡神社神主)は、尾藩勤王誘引係とともに駿州へ向かった。同職の神官を結隊させるためである。こうして駿州赤心隊が結成される。